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第21回|グリーフへの誤解 #2

 大切な人やもの、環境などを喪失した時におこる、様々な反応をグリーフといいます。前回に引き続き、グリーフやグリーフケアについて誤解されがちなことを考えてみたいと思います。

 喪失によってグリーフは大きくあらわれ、時間が経つにつれて、だんだんグリーフが小さくなっていく。そのように私たちは考えがちではないでしょうか。例をあげると、お連れ合いが亡くなって、亡くなった直後は悲しくていろんなことが手につかなくなる。けれども、1か月が経ち、数か月経ち、そして年数を経てだんだん悲しみが和らいでいく。悲しみは消えないけど、たまに思い出しながら日常生活を送っていく。

 もちろん、中にはこういった経過を辿る方もおられます。しかしながら、必ずしも全員がそうなるとは限りません。喪失から何か月か経っていてもグリーフが重い、しんどいという方もいれば、喪失体験があっても、そのことを強く悲しいとは思わない、無関心としてグリーフが現れることもあります。大切なことは、グリーフやその経過はひとりひとり異なるということです。

 自分が体験したように、他の人のグリーフも同じようになるとは限りません。いつまでも悲しんでは亡くなった人が安心できないと声をかけてしまったり、何年も経っているのに悲しい思いが消えないと苦しむことは、私たちが自分の脳裏に思い描いた「正しい」グリーフの経過から、ずれてしまっていることを気にしているのではないでしょうか。

 グリーフそのものは病気ではありません。グリーフは誰にでも起こり得る自然な反応です。グリーフが人それぞれ異なるということは、誰でも共通の「正しい」グリーフの経過というのは存在しないということです。全員が必ずしも一定の経過を辿るような正解はありません。時間が経てば楽になる、楽にならなければおかしいと思うならば、それはグリーフについての大きな誤解だと私は思います。

 時間が経てば悲しみや苦しみが和らぐことを俗に時薬(ときぐすり)と言います。もちろん時間の経過で楽になることもありますが、亡くなった日や、何かかのきっかけでまたグリーフが現れることもあります。そのことを無視してはいけません。

第20回|グリーフへの誤解 #1

 書きたいことがいっぱいあるのですが、浅学の身ではなかなか文章にできず、テーマ選びに難航しています。グリーフについて書かれた本を読んだり、インターネットで情報を集めたり、生成AIに聞いてみることもあります(文章は全て自分で書いています)。

 インターネット上の情報や生成AIの回答の中には、グリーフケアについて誤解されているのではないかと感じられるものも少なくありません。今回はそこに焦点をあてて、グリーフについてよく見られる誤解について考えてみたいと思います。

 グリーフとは死別について言うものであり、グリーフケアとは死別の悲しみを癒やすものであるという誤解。インターネットでグリーフケアについて調べると、グリーフが死別に限定されているものが多く見受けられます。パートナーや友人、家族などの大事な存在を喪うことは心身に大きな影響を与えうる喪失と言えるでしょう。死別による喪失はグリーフであると私も思います。

 しかしながら、繰り返し言っていますが、グリーフとは大切な人やもの、環境などを喪失した時に起きる様々な反応のことを指します。それは決して死別に限定されたものではなく、例えば、財布を落とすことで生まれるグリーフもありますし、引っ越しで見知らぬ土地に移ることで心身に反応が起きることもあるでしょう。身体が傷ついたり、病気によって健康を損なうこともグリーフと言えると思います。ついつい、死別というところに注目しがちですが、死別だけがグリーフというのは大きな間違いです。

 また、グリーフケア=癒やしというのも注意が必要だと私は思います。グリーフケアによって悲しみや辛さが和らいだり、癒やされたという人はいるでしょう。それは意義深いことだと思います。しかし、グリーフは悲しみだけではなく、喜びとして現れたり、心身の不調や過活動、なぜこうなったかなどの答えの無い問いかけの形で現れることもあります。死別の悲しみを癒やすというのは極めて限定的です。また、癒やしを求めない人もいます。そういった人のグリーフも大事にしたいと私自身は思います。グリーフケアは押し付けがましいものではありません。

第19回|亡き人への手紙

 大事な人やもの、環境などを喪失した時に起きる様々な反応をグリーフといいます。このコラムではグリーフについて知ることで、グリーフを付き合いやすくなることを目的として書いています。

 グリーフは時間の経過と共に軽くなるように考えられがちですが、必ずしもそうとは限りません。たとえば、喪失から時間を経て、少し気持ちが軽くなったように見えていても、ふとしたきっかけで、しんどいな、辛いなと思うこともあります。死別であれば、亡くなった日や、喪失した存在と思い入れのある日、たとえば誕生日や結婚記念日などにグリーフが重くなることがあると言われています。これを記念日反応といいます。また、先日、お連れ合いを亡くしてシングルファザーとなり、子どもを育てている人のお話を聞く機会があったのですが、その人は子どもの入学式や運動会などで、周りの家族を見ると悲しい気持ちが増したと話しておられました。

 そういった時に自分の中のグリーフと付き合っていく方法の一つに「亡くなった人や存在に手紙を書く」というものがあります。今の自分の気持ちや思っていること、また亡くなった人、かわいがったペット、大切な存在に伝えたいこと、聞いてほしいことを、そのまま文字に書いて言葉にしてください。手紙として整った文章でもよいですし、思いつくままに箇条書きにしても良いと思います。文字にすることが難しければ絵や他の表現方法を使っても良いでしょう。大切なことは自分の中にある思いを、外に向かって出してみることです。心の中にもやもやしていたものを、言葉や絵などにすることで、見えてくるものもあるでしょう。

 書いた手紙をどうするか。地域によっては「漂流ポスト」や「緑のポスト」といって亡き人への手紙を受け入れる場所もありますが、残念ながら空知では聞きません。最近では葬儀屋さんが類似のポストを設置している例もあります。インターネットでは、そらノート(https://soranote.jp)といったサービスも無償公開されています。うちのお寺でも来年あたり、お盆にあわせて8月中は手紙を受け付けるようなポストを設置してもよいなと、この原稿を書きながら考えています。

そらノート|https://soranote.jp

第18回|グリーフケアって難しいこと?

 グリーフとは大切な人やもの、環境などを喪失した時に起こる、さまざまな感情や反応、状態をあらわす言葉です。グリーフケアとは、これも多様な言い方をされる言葉ですが、私自身は「グリーフを大切にすること」と考えています。このコラムは、グリーフについて知り、グリーフと付き合いやすくすることを目的に書いています。

 先日、あるところで、「グリーフケアって難しいですよね」と言われたことがありました。どういった部分が難しいと感じるのか、それ以上聞くことはできませんでしたが、今でもその言葉が気にかかっています。

 たとえば、私自身も、グリーフを抱える人と接する時に、無神経なことを言ったり、好ましくない態度をとって、目の前の人を傷つけてしまわないかと心配になることがあります。また、グリーフやグリーフケアについて、少しずつ社会的な認知度が上がり、知る人が増えてきました。グリーフ、グリーフケアについて誤解していると感じることや、私が聞いてきたのとは違う考え方をされる人に出会ってきたこともあります。そういった部分でグリーフ、グリーフケアについての難しさを、私自身も全く感じないわけではありません。

 私たちは人生の中で多くの喪失体験を得てきました。小さな子どもであっても、祖父母などの身近な家族や、飼っていたペットを亡くした人もいます。死別に限らなければ喪失体験はもっと多いことでしょう。喪失と無関係に生きている人はいません。誰しもがグリーフを抱えながら生きています。

 グリーフケアという言葉を知らなくても、喪失体験を人に話したり、人から聞くこともあるでしょう。また、喪失によって困り事が起きた時、たとえば、お連れ合いが買い物の車を出していたり、除雪を行っていたけれども、できなくなった。そういった時に人に頼ったり、助けてもらったということもあるでしょう。これらも大切なグリーフケアです。

 グリーフケアを難しく感じる中には、なにか専門的な、技術的なものと考えているところもあるのではないでしょうか。そういった学びも大切です。けれども、グリーフやグリーフケアはもっと身近なところにあるのだと私は思います。

第17回|ペットロス

現代ではペットも大切な家族のひとりとして共に暮らしている方も少なくありません。愛するペットとの別れは大きな喪失体験です。我が家でも昨年の7月に飼っていた犬が亡くなりました。年齢はおよそ10歳。オスの柴犬でした。ほとんど父母が世話をしていたのですが、たまに一緒に遊んだり、散歩に行きました。けれども、数年前に私自身に子どもが生まれてからはつい後回しになり、犬の顔を見ても触れ合う時間は少なくなっていました。

そんなある日、その犬が急に亡くなりました。夜に体調を崩して翌朝に亡くなったようです。私が見た時には眠るような姿でもう冷たくなっていました。犬の遺体を焼く業者もあるようでしたが、東滝川のリサイクリーンに連れていきました。タオルに包み車に乗せて、真っ直ぐ行くのは忍びなかったので、一緒に歩いた散歩道をゆっくりまわりました。時折タオルの上から身体を撫でて、最近すっかり相手をしていなかったことを詫びながら向かいました。

飼い犬が亡くなったことで私の中には次のような反応が起こってきました。十分に接してこなかったという罪悪感。急な別れによる驚きや焦燥感。犬がいた場所に行くとまだそこにいる気がする現在感。またその日はちょうどグリーフ関係の予定があり、休もうかとも考えましたが、身近に起きているグリーフを大切にしたいと、やや無理をして出席しました。過活動のようなものもあったのかもしれません。

私は今回体験しませんでしたが、ペットロスによるグリーフは周囲の人から「たかがペットが亡くなったくらいで…」と喪失が軽く扱われてしまうこともあります(公認されないグリーフ)。他にもペットロスによるグリーフの特徴として、子どもにとっては初の死別体験となりうるということもあるようです。私の娘にとっても初めての家族との別れでした。犬の名前を呼びながら「いなくなっちゃったの」と戸惑いながら繰り返していました。

飼い犬のことを思い出すと今でも辛く悲しい気持ちは消えません。普段は忘れていても、ふっとしんどさを感じることもあります。けれどもこの痛みを通して私はグリーフを「ちゃあ」に教えてもらっています。

第16回|葬送儀礼とグリーフ

グリーフとは、大切なものや人、環境などを喪失したことでおきる様々な感情や反応、プロセスなどを言います。このようにグリーフは死別に限った話ではないのですが、現在の社会の中では、死別において語られることが多いように感じます。そこで今回は死別、特に葬送儀礼に注目して僧侶という立場から考えてみたいと思います。

うちのお寺でいうと、亡くなったという連絡を受けてから、まず枕経があります。それから、お通夜、葬儀、還骨法要。亡くなった日から数えて初七日、二七日、三七日…と七日毎に中陰の法要があり、七日七日=四九日の法事があります。亡くなった命日にあわせて毎月、月参りにうかがうこともあります。

これらは最近では簡略化されることも増えてきましたが、私自身はグリーフサポートの機会となりうる大切な場だと思います。中陰や月参りで、亡くなられた時の話を繰り返し聞くことも少なくありません。繰り返し語ることは、その人にとって喪失と付き合っていくための大事なプロセスとなっているのでしょう。亡くなった人に思いを寄せる場として機能してきたのだと思います。

グリーフによる影響として、喪失をきっかけに神仏への疑問や、終わりのないなぜという問いが起こることもあります。また、お骨をどうしたらいいか、納骨にはどういった形があるのか。それから、周囲から寄せられる、泣いていたら亡くなった人が迷うよとか、早く納骨しないとだめだよとの声で傷つくこともあります。こういった問題を共に考え、必要に応じて選択肢を提示し、それは迷信ですとはっきり言えるのは宗教者の仕事です。

これらはグリーフケアを専門的に学んだ人でなくても、安心して語れる相手として宗教者が担ってきた部分だと思います。もちろん宗教者だけが信頼できる聞き手ではありません。(その宗教者が信頼できない場合もありますが、今回は考えないでおこうと思います)出されたお茶をいただきながら、目の前の人の話を大切に聞く。それができる人の選択肢の中に宗教者はいます。お坊さんに話してもいいのだろうか、聞いてみてもいいのかと迷うかもしれませんが、私自身はぜひ話して欲しいと思っています。

第15回|自殺とグリーフ

このコラムを書いている数日前に、2024年の自殺者数の確定値が発表されました。全体の自殺者数は2万320人。減少傾向にあって1978年の統計開始から過去2番目に少ないそうです。一方で、小中高生の自殺者数は529人と過去最多となりました。

最近、リヴオンという団体で「いのちの授業」を学校や教育機関に展開していく講師認定を受けました。いのちの授業とは、自殺予防教育の一環で、自分で自分を大切にする力を育み、子どもたちが生き続けられる社会を目指す活動です。

交通事故対策として、自転車の乗り方や横断歩道の渡り方を学ぶ機会は学校でもあります。一方で、これだけ子どもの自殺者数が増えている中で、自殺予防教育が行われる機会はそう多くはありません。

いのちの授業では、生と死について考え、グリーフワークについて学んだり、つらくなった時にはどうしたらいいのか、セルフケアを学びます。子どもの死因の1位が自殺である現状を話して、その原因を私たちの価値観にたずねます。たとえば、人に迷惑をかけちゃだめが、人を頼ることはだめになっていないかと考えます。そして、弱さを出せる強さについて伝えています。

子ども向けの授業ですが、人を頼るのはよくないとか、頑張れない自分に意味が見いだせないとか、価値観によって苦しむのは大人も同じであり、大きな問題だと感じます。

また、自殺は残された人にとっても大きなグリーフとなります。悲しみや不安が強くなったり、夜眠れなくなる。人間関係が壊れる。なぜ?という答えが出ない問いかけや、どうして気づけなかったのかと自分を責める人もいます。

場合によっては亡くなった理由を周囲に隠すこともあるでしょう。故人の死について誰にも語ることができずに、一人で抱え込んでしまって追い込まれてしまうこともあります。同じ自死遺族同士で聞きあう、自死遺族のための分かち合いの会が地域やインターネットで開催されています。保健所などでも相談を受け付けています。自分の気持ちを誰かに聞いてもらうこともグリーフと付き合っていく大切な手段です。人に会う気が起こらなければ、文字に書き出してみるのも有効です。

第14回|ペリネイタルロス

ペリネイタルロスは流産や死産、新生児の死亡、人工妊娠中絶などの妊娠出産に関わる喪失を指す言葉です。

子どもを亡くすことは大きなできごとですが、残念ながら社会的には軽視されがちで、1人の人間の死と扱われづらい現実があります。また、妊娠したことや、流産・死産の経緯について知られていなかったり、話すことができなくて周囲から認められづらい、公認されないグリーフでもあります。

グリーフの影響として、ショックを受けたり、どうして元気に生んであげられなかったのかと自責の念が起こることがあります。出産による身体の変化も起こります。赤ちゃんのことが頭から離れなくなったり、元気な赤ちゃんの声を聞くことが苦痛に感じる。眠れなくなったり、普通の生活に戻ることに不安を感じる人もいます。これらはあくまでも限られた例です。ここに当てはまらないものも多くあります。これらの影響は誰にでも起こりうる自然な反応です。起こったことで自分を責めたり、乗り越えなければいけないものではありません。

周囲の人から次は大丈夫とか、早く忘れなさいと声をかけられて辛かったという声も聞きます。声を掛ける側としては良かれと思って励ましていても、その言葉がかえって本人の苦しみを増してしまうこともあります。
身体的な変化を実感していた母親と、そのような実感がない父親ではグリーフの現れ方が異なるとも言われています。私自身あるエピソードを思い出します。流産で子どもを亡くしたある葬儀で、母親は子どもを失った悲しみで泣いているのに、父親は冷静にしている。子どもが死んだのに悲しくないのかと母親が父親を責めた。僧侶が、父親は父親なりに苦しんでいると思うと話すと父親が泣き出した。これはひとつの例ですが、パートナーで互いにわかりあえないと感じることがあります。

赤ちゃんのためにしてあげたいことがあれば、周囲に遠慮せずにしてあげるとよいと言われています。沐浴させる。体に触れる。家族で共に過ごす。思い出の品を残す。また、小さな産着を提供している支援団体もあります。ペリネイタルロスや周産期グリーフケアという言葉で検索してください。

第13回|改めてグリーフとは

グリーフとはその人にとって大切な人やもの、環境などを喪失したことで起こるさまざまな感情や反応、状態などを指す言葉です。日本語では悲嘆と訳されることが多い言葉ではありますが、悲しみだけに限ったものではありません。大切な人を亡くして悲しいことがあります。けれども一方で、もう苦しむことはないと思うとほっとしたという人もいます。グリーフが喜びや安堵としてあらわれることもあるでしょう。

また、このグリーフにまつわる喪失体験は死別について語られることが多いですが、死別のみに限った話でもありません。災害で家や故郷を失ったり、病気で健康を失うこともあるでしょう。そのような時にも私たちの心身には様々な感情や反応があらわれてくると思います。

これらの感情や反応は誰にでもあらわれうる自然なものです。グリーフは病気ではありません。ただ、グリーフを抱える人の中には、例えば死別から1年以上経っても日常生活が成り立たないほど苦しみが大きいような場合、遷延性悲嘆症といって医療的なケアが必要になる場合があります。

早く悲しみから立ち直らなければいけないと言われることがあります。立ち直ろうと努力することを否定する必要はないですし、その人を励まそうと善意で声をかけることもあるでしょう。けれども、悲しみから無理に立ち直ろうとしたり、グリーフは越えていかなければいけないものではないと私は思います。泣いてはいけない、なんてことは言うべき言葉ではないでしょう。

また同じような喪失体験であっても、グリーフは人それぞれ異なります。グリーフはまるで指紋のように違うと言われることもあります。私の時はこうだったのに、あの人はどうしてああなのか、などとつい比べてしまいたくなりますが、起こってくることは人それぞれ異なるものなのです。

このコラムの目的は、グリーフについて知ることで、自分自身のグリーフと付き合いやすくすることです。また、自分自身のグリーフを大切にすることは、他者のグリーフを大切にできることに繋がっていくでしょう。自分や他者のグリーフを大切に扱えることがグリーフケアの第一歩となるのではないでしょうか。

第12回|グリーフから生まれるもの

早いものでこのコラムを書かせていただくようになって1年になります。グリーフについて知ることで、グリーフと付き合いやすくすることを目的として書いてきました。読んでいる皆さんにとって、グリーフとお付き合いしていくための道具になれたでしょうか。

たまにお坊さんらしいことを書きます。あるところにキサーゴータミーという女性がいました。彼女は子どもの病気を治す薬を求めてお釈迦様の元を訪れます。ところが子どもの身体は冷たく、既に亡くなっていました。しかし、キサーゴータミーは子どもの死を認められず、病気を治す薬を求めます。お釈迦様は彼女にケシの粒を貰ってくるように言いました。ただし、これまで死者を出したことが無い家から貰ってくるのですよと。キサーゴータミーはケシの粒を求めて家々を訪ね歩きます。ケシは簡単に見つかりましたが、どの家に行っても死者を出したことが無い家は見つかりません。尋ね回ったことで、キサーゴータミーは死はどこの家にもあるのだと気づきます。死は避けられないものと知ったキサーゴータミーは子どもの死を受け入れ、出家してお釈迦様の弟子になりました。

グリーフとは大切な人やもの、環境などを失った時に起こる、様々な反応等をいいます。キサーゴータミーの気づきのように、世の中には、喪失を経験したことが無い人はいないでしょう。大切な存在との別れはしんどいものですが、その経験はしんどいだけでは終わりません。苦しみや辛さをきっかけとして、私たちを動かすものでもあります。

息子の死を受け入れたキサーゴータミーは生死を超える道を求めて仏弟子になりました。私は喪失をきっかけに、グリーフを学ぶことができました。お連れ合いを亡くして、周囲の人々の温かさを感じたという人もいます。喪失を通して教えられているものがあります。グリーフはグリーフのままでは終わりません。もちろん、そうは思えない人もいるでしょう。グリーフのまっただ中にいる人にとっては想像もしたくないかもしれません。けれども、私の体験したグリーフが、誰かの役に立てばいいなと私は今思っています。

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