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第17回|ペットロス

現代ではペットも大切な家族のひとりとして共に暮らしている方も少なくありません。愛するペットとの別れは大きな喪失体験です。我が家でも昨年の7月に飼っていた犬が亡くなりました。年齢はおよそ10歳。オスの柴犬でした。ほとんど父母が世話をしていたのですが、たまに一緒に遊んだり、散歩に行きました。けれども、数年前に私自身に子どもが生まれてからはつい後回しになり、犬の顔を見ても触れ合う時間は少なくなっていました。

そんなある日、その犬が急に亡くなりました。夜に体調を崩して翌朝に亡くなったようです。私が見た時には眠るような姿でもう冷たくなっていました。犬の遺体を焼く業者もあるようでしたが、東滝川のリサイクリーンに連れていきました。タオルに包み車に乗せて、真っ直ぐ行くのは忍びなかったので、一緒に歩いた散歩道をゆっくりまわりました。時折タオルの上から身体を撫でて、最近すっかり相手をしていなかったことを詫びながら向かいました。

飼い犬が亡くなったことで私の中には次のような反応が起こってきました。十分に接してこなかったという罪悪感。急な別れによる驚きや焦燥感。犬がいた場所に行くとまだそこにいる気がする現在感。またその日はちょうどグリーフ関係の予定があり、休もうかとも考えましたが、身近に起きているグリーフを大切にしたいと、やや無理をして出席しました。過活動のようなものもあったのかもしれません。

私は今回体験しませんでしたが、ペットロスによるグリーフは周囲の人から「たかがペットが亡くなったくらいで…」と喪失が軽く扱われてしまうこともあります(公認されないグリーフ)。他にもペットロスによるグリーフの特徴として、子どもにとっては初の死別体験となりうるということもあるようです。私の娘にとっても初めての家族との別れでした。犬の名前を呼びながら「いなくなっちゃったの」と戸惑いながら繰り返していました。

飼い犬のことを思い出すと今でも辛く悲しい気持ちは消えません。普段は忘れていても、ふっとしんどさを感じることもあります。けれどもこの痛みを通して私はグリーフを「ちゃあ」に教えてもらっています。

第16回|葬送儀礼とグリーフ

グリーフとは、大切なものや人、環境などを喪失したことでおきる様々な感情や反応、プロセスなどを言います。このようにグリーフは死別に限った話ではないのですが、現在の社会の中では、死別において語られることが多いように感じます。そこで今回は死別、特に葬送儀礼に注目して僧侶という立場から考えてみたいと思います。

うちのお寺でいうと、亡くなったという連絡を受けてから、まず枕経があります。それから、お通夜、葬儀、還骨法要。亡くなった日から数えて初七日、二七日、三七日…と七日毎に中陰の法要があり、七日七日=四九日の法事があります。亡くなった命日にあわせて毎月、月参りにうかがうこともあります。

これらは最近では簡略化されることも増えてきましたが、私自身はグリーフサポートの機会となりうる大切な場だと思います。中陰や月参りで、亡くなられた時の話を繰り返し聞くことも少なくありません。繰り返し語ることは、その人にとって喪失と付き合っていくための大事なプロセスとなっているのでしょう。亡くなった人に思いを寄せる場として機能してきたのだと思います。

グリーフによる影響として、喪失をきっかけに神仏への疑問や、終わりのないなぜという問いが起こることもあります。また、お骨をどうしたらいいか、納骨にはどういった形があるのか。それから、周囲から寄せられる、泣いていたら亡くなった人が迷うよとか、早く納骨しないとだめだよとの声で傷つくこともあります。こういった問題を共に考え、必要に応じて選択肢を提示し、それは迷信ですとはっきり言えるのは宗教者の仕事です。

これらはグリーフケアを専門的に学んだ人でなくても、安心して語れる相手として宗教者が担ってきた部分だと思います。もちろん宗教者だけが信頼できる聞き手ではありません。(その宗教者が信頼できない場合もありますが、今回は考えないでおこうと思います)出されたお茶をいただきながら、目の前の人の話を大切に聞く。それができる人の選択肢の中に宗教者はいます。お坊さんに話してもいいのだろうか、聞いてみてもいいのかと迷うかもしれませんが、私自身はぜひ話して欲しいと思っています。

第15回|自殺とグリーフ

このコラムを書いている数日前に、2024年の自殺者数の確定値が発表されました。全体の自殺者数は2万320人。減少傾向にあって1978年の統計開始から過去2番目に少ないそうです。一方で、小中高生の自殺者数は529人と過去最多となりました。

最近、リヴオンという団体で「いのちの授業」を学校や教育機関に展開していく講師認定を受けました。いのちの授業とは、自殺予防教育の一環で、自分で自分を大切にする力を育み、子どもたちが生き続けられる社会を目指す活動です。

交通事故対策として、自転車の乗り方や横断歩道の渡り方を学ぶ機会は学校でもあります。一方で、これだけ子どもの自殺者数が増えている中で、自殺予防教育が行われる機会はそう多くはありません。

いのちの授業では、生と死について考え、グリーフワークについて学んだり、つらくなった時にはどうしたらいいのか、セルフケアを学びます。子どもの死因の1位が自殺である現状を話して、その原因を私たちの価値観にたずねます。たとえば、人に迷惑をかけちゃだめが、人を頼ることはだめになっていないかと考えます。そして、弱さを出せる強さについて伝えています。

子ども向けの授業ですが、人を頼るのはよくないとか、頑張れない自分に意味が見いだせないとか、価値観によって苦しむのは大人も同じであり、大きな問題だと感じます。

また、自殺は残された人にとっても大きなグリーフとなります。悲しみや不安が強くなったり、夜眠れなくなる。人間関係が壊れる。なぜ?という答えが出ない問いかけや、どうして気づけなかったのかと自分を責める人もいます。

場合によっては亡くなった理由を周囲に隠すこともあるでしょう。故人の死について誰にも語ることができずに、一人で抱え込んでしまって追い込まれてしまうこともあります。同じ自死遺族同士で聞きあう、自死遺族のための分かち合いの会が地域やインターネットで開催されています。保健所などでも相談を受け付けています。自分の気持ちを誰かに聞いてもらうこともグリーフと付き合っていく大切な手段です。人に会う気が起こらなければ、文字に書き出してみるのも有効です。

第14回|ペリネイタルロス

ペリネイタルロスは流産や死産、新生児の死亡、人工妊娠中絶などの妊娠出産に関わる喪失を指す言葉です。

子どもを亡くすことは大きなできごとですが、残念ながら社会的には軽視されがちで、1人の人間の死と扱われづらい現実があります。また、妊娠したことや、流産・死産の経緯について知られていなかったり、話すことができなくて周囲から認められづらい、公認されないグリーフでもあります。

グリーフの影響として、ショックを受けたり、どうして元気に生んであげられなかったのかと自責の念が起こることがあります。出産による身体の変化も起こります。赤ちゃんのことが頭から離れなくなったり、元気な赤ちゃんの声を聞くことが苦痛に感じる。眠れなくなったり、普通の生活に戻ることに不安を感じる人もいます。これらはあくまでも限られた例です。ここに当てはまらないものも多くあります。これらの影響は誰にでも起こりうる自然な反応です。起こったことで自分を責めたり、乗り越えなければいけないものではありません。

周囲の人から次は大丈夫とか、早く忘れなさいと声をかけられて辛かったという声も聞きます。声を掛ける側としては良かれと思って励ましていても、その言葉がかえって本人の苦しみを増してしまうこともあります。
身体的な変化を実感していた母親と、そのような実感がない父親ではグリーフの現れ方が異なるとも言われています。私自身あるエピソードを思い出します。流産で子どもを亡くしたある葬儀で、母親は子どもを失った悲しみで泣いているのに、父親は冷静にしている。子どもが死んだのに悲しくないのかと母親が父親を責めた。僧侶が、父親は父親なりに苦しんでいると思うと話すと父親が泣き出した。これはひとつの例ですが、パートナーで互いにわかりあえないと感じることがあります。

赤ちゃんのためにしてあげたいことがあれば、周囲に遠慮せずにしてあげるとよいと言われています。沐浴させる。体に触れる。家族で共に過ごす。思い出の品を残す。また、小さな産着を提供している支援団体もあります。ペリネイタルロスや周産期グリーフケアという言葉で検索してください。

第13回|改めてグリーフとは

グリーフとはその人にとって大切な人やもの、環境などを喪失したことで起こるさまざまな感情や反応、状態などを指す言葉です。日本語では悲嘆と訳されることが多い言葉ではありますが、悲しみだけに限ったものではありません。大切な人を亡くして悲しいことがあります。けれども一方で、もう苦しむことはないと思うとほっとしたという人もいます。グリーフが喜びや安堵としてあらわれることもあるでしょう。

また、このグリーフにまつわる喪失体験は死別について語られることが多いですが、死別のみに限った話でもありません。災害で家や故郷を失ったり、病気で健康を失うこともあるでしょう。そのような時にも私たちの心身には様々な感情や反応があらわれてくると思います。

これらの感情や反応は誰にでもあらわれうる自然なものです。グリーフは病気ではありません。ただ、グリーフを抱える人の中には、例えば死別から1年以上経っても日常生活が成り立たないほど苦しみが大きいような場合、遷延性悲嘆症といって医療的なケアが必要になる場合があります。

早く悲しみから立ち直らなければいけないと言われることがあります。立ち直ろうと努力することを否定する必要はないですし、その人を励まそうと善意で声をかけることもあるでしょう。けれども、悲しみから無理に立ち直ろうとしたり、グリーフは越えていかなければいけないものではないと私は思います。泣いてはいけない、なんてことは言うべき言葉ではないでしょう。

また同じような喪失体験であっても、グリーフは人それぞれ異なります。グリーフはまるで指紋のように違うと言われることもあります。私の時はこうだったのに、あの人はどうしてああなのか、などとつい比べてしまいたくなりますが、起こってくることは人それぞれ異なるものなのです。

このコラムの目的は、グリーフについて知ることで、自分自身のグリーフと付き合いやすくすることです。また、自分自身のグリーフを大切にすることは、他者のグリーフを大切にできることに繋がっていくでしょう。自分や他者のグリーフを大切に扱えることがグリーフケアの第一歩となるのではないでしょうか。

第12回|グリーフから生まれるもの

早いものでこのコラムを書かせていただくようになって1年になります。グリーフについて知ることで、グリーフと付き合いやすくすることを目的として書いてきました。読んでいる皆さんにとって、グリーフとお付き合いしていくための道具になれたでしょうか。

たまにお坊さんらしいことを書きます。あるところにキサーゴータミーという女性がいました。彼女は子どもの病気を治す薬を求めてお釈迦様の元を訪れます。ところが子どもの身体は冷たく、既に亡くなっていました。しかし、キサーゴータミーは子どもの死を認められず、病気を治す薬を求めます。お釈迦様は彼女にケシの粒を貰ってくるように言いました。ただし、これまで死者を出したことが無い家から貰ってくるのですよと。キサーゴータミーはケシの粒を求めて家々を訪ね歩きます。ケシは簡単に見つかりましたが、どの家に行っても死者を出したことが無い家は見つかりません。尋ね回ったことで、キサーゴータミーは死はどこの家にもあるのだと気づきます。死は避けられないものと知ったキサーゴータミーは子どもの死を受け入れ、出家してお釈迦様の弟子になりました。

グリーフとは大切な人やもの、環境などを失った時に起こる、様々な反応等をいいます。キサーゴータミーの気づきのように、世の中には、喪失を経験したことが無い人はいないでしょう。大切な存在との別れはしんどいものですが、その経験はしんどいだけでは終わりません。苦しみや辛さをきっかけとして、私たちを動かすものでもあります。

息子の死を受け入れたキサーゴータミーは生死を超える道を求めて仏弟子になりました。私は喪失をきっかけに、グリーフを学ぶことができました。お連れ合いを亡くして、周囲の人々の温かさを感じたという人もいます。喪失を通して教えられているものがあります。グリーフはグリーフのままでは終わりません。もちろん、そうは思えない人もいるでしょう。グリーフのまっただ中にいる人にとっては想像もしたくないかもしれません。けれども、私の体験したグリーフが、誰かの役に立てばいいなと私は今思っています。

第11回|あいまいな喪失

 大切な人やもの、環境などを喪失した時に起こる様々な反応をグリーフといいます。この喪失について、「あいまいな喪失」という理論があります。提唱者のポーリン・ボスは「はっきりしないまま、解決することも、終結することもない喪失」を「あいまいな喪失」と呼びました。あいまいな喪失は、2つのタイプに分けて考えられています。

 1つは身体的には存在しないが、心理的には存在している状況。例えば災害などで死の状態が明確でなくて、その人にはっきりとさよならを告げることがないままに別れてしまった。この場に故人はもういないけれども、気持ちの上ではまだ生きている。こういったものを「さよならのない別れ」といいます。

 新型コロナが流行して数年間、遺体と対面もできずに火葬されたり、お骨になってから葬儀を勤めることがありました。顔を見ることもできずに別れて、痛みを感じる人たちを見ました。これも、あいまいな喪失です。

 もう1つは、身体的には存在しているけれども、心理的には存在していない状況です。認知症などの影響で、本人はその場にいるけれども、以前のような関係を続けることが難しい。あるいは家族にとっては別の存在のようになってしまった。これを「別れのないさよなら」といいます。

 このタイプのあいまいな喪失は、その人やものなどは存在していますから、周囲や自分自身にとって、なかなか喪失と認められずに、グリーフと認識されづらい場合があります。変わったことを認められなくて、以前のような関係を無理に保ち続けようとすることは大きな苦痛をもたらすこともあります。自分の気持ちを閉じ込めずに誰かに話したり、自分を大事にする時間をもつことも良い方法です。

 また、2つのタイプが混在する場合もあります。今回、あいまいな喪失をとりあげたのは、まずは、あいまいな喪失について知っておいて欲しいからです。グリーフと認識することで変化していくものもあります。また、あいまいな喪失を抱える人と接する時には、白黒がはっきりするように、決着をつけようとすることはお勧めできません。あいまいさを消すのではなく、あいまいなままに聞くことも大切です。

第10回|公認されないグリーフ

喪失を体験した人がその喪失を周囲から認められなかったり、グリーフを抱える存在として認知されないことを「公認されないグリーフ」と言います。関係が認められない、喪失が認められない、喪失を理解できないと見られることの3つの例で考えていきます。

関係が認められないとは、配偶者との死別で考えると、多くは葬儀や死後の手続きに関わり、周囲からも連れ合いを亡くした人と認識されます。しかし、たとえば、関係を秘密にしていたり、認められていない恋人などは、死後の手続きや葬儀に関わることは難しいでしょう。同性のパートナーが病院での手続きにサインできないとか、遺体を引き取れない。パートナーの両親に自分との関係が認めてもらえず、葬儀に出られなかったと耳にします。婚約者や、SNSの知り合いだけど面識が無い友人なども、関係が周囲から認められにくい場合があるでしょう。

喪失が認められないとは、最近ではペットを文字通り家族のひとりとして愛情を注がれる人も多いでしょう。そうした人にとってペットロスは、大きなグリーフです。しかし、ペットがそれほど大きな存在だと認識しない人もいます。家族が亡くなれば仕事を休むことは当たり前でも、ペットが亡くなって休むなんてけしからんとか。人間の家族に比べ、ペットを失うことは軽く扱われることがあります。また、医療や介護、葬祭に関わり、日常的に死別を経験する人は、喪失体験が日常のことと軽んじられることもあります。

喪失を理解できないと見られるとは、小さな子どもや、認知症のお年寄りなどが、グリーフを抱える存在として周囲から認められないことを言います。子どもであれば大人と同じようには死を理解できなくても、おねしょや暴れたり、急に甘えるようになったり。お年寄りも、死別を理解することに大きく時間がかかったり、死別したことを忘れ、初めて体験したように繰り返すこともあります。

そう見えなくてもグリーフを抱える人は多くおられます。喪失体験を人に明かせなかったり、グリーフを言葉にすることができない状況もあります。グリーフを抱える人を認め、抱えるグリーフを軽く見ないで、安心して悲しめる環境が必要です。

第9回|子どもにとってのグリーフ

喪失を体験するのは大人だけではありません。今回は小さな子どもが喪失を体験した時のグリーフについて一緒に考えてみましょう。

たとえば小さな子どもが祖父母や親との死別を経験した時に、どういった言葉をかけますか。まだ小さくて死を理解していないだろうから、特別な対応は必要無いでしょうか。別れが近くなっても、子どもに知らせるのはかわいそうだから、あえて伝えないこともあるかもしれません。

小さな子どもにとって、死について、二度と会えないことや、もう話したり遊んだりできないことを、理解するのは難しいことかもしれません。そのような理解ができるのは小学生になる頃からとも言われています。しかし、それでは小さな子どもは死について何も感じていないのでしょうか。

我が家では飼っていた柴犬が、つい数ヶ月前に急に亡くなりました。その時の3歳の娘の反応を書きます。犬は「ちゃあ」という名前でした。ちゃあが、寝そべって動かない様子を娘は不思議そうに見ています。私の母が娘に「ちゃあ、いなくなっちゃったの」と教えると、娘は戸惑った様子で「ちゃあ、いなくなっちゃったの」とオウム返しのように繰り返していました。また亡くなってからしばらくの間は、犬がいたスペースを何度も見に行きました。家族の様子がいつもと違う。いつもいた犬が何故かいない。娘なりに変化を感じていたようです。小さな子どもにとってもグリーフが無いわけではありません。

子どものグリーフは大人と同じようなものもあれば違うものもあります。たとえばトイレに行けなくなる、親から離れられなくなる、亡くなったのは自分のせいだと思いこんでしまう。自分の気持ちを言葉で表現することが難しい子どもだと、行動を通してグリーフを表現することも多くなります。勉強に集中できなかったり、怒りっぽく暴れたり、おとなしく静かになる子もいます。子どものグリーフも千差万別です。

子どもだからと軽んじたり、ごまかさずに、子どもの言葉に耳を傾け、喪失のことをできる範囲で子どもに伝えることも大切なことです。どうかグリーフを抱える1人の人間として尊重してください。

第8回|グリーフサポート

 グリーフとは、愛着のある人やもの、環境などを失った時に起こる様々な反応や状態を指します。このコラムでは、グリーフについて知ることで、グリーフと付き合いやすくすることを目的に書いてきました。このようにグリーフを抱える人を支援する場や仕組みを、グリーフサポートといいます。今回はこのグリーフサポートについて取り上げます。

 「分かち合いの会」というものがあります。私自身も隔月で友人の僧侶と札幌で開催しております。これは喪失を経験した人たちが集まって、それぞれの体験や思いを語り合い、聞き合うような場です。このような会では、「他者の発言を否定しない」とか「聞いた話は外に漏らさない」、「話したくないことは話さなくて良い」など、一定のルールが設けられることが多くあります。これらのルールは、参加者の一人ひとりを尊重して、その場に安心して居られることを目的として設定されています。こういった「分かち合いの会」は様々な団体によって各地で開かれています。どうしても都市部が多いですが、最近だとインターネットを使ってオンラインで参加できる会も増えてきました。参加できる対象は会により様々で、誰でも参加できる場もあれば、がんや交通事故、自死などの喪失や死別のありようで対象が分けられることもあります。

 会によって運営方針やグリーフケアの考え方も様々ですが、自分と同じように喪失を経験した人と交流をもち、そうした人たちの話を聞き、また自分の思いを聞いてもらえる場所として、大事なグリーフサポートの場だと思います。

 また、グリーフサポートは「分かち合いの会」のみに限ったものではありません。死産で我が子を失った親に向けて、小さな産着を提供する団体やグリーフケア外来、カウンセリングなどの形でグリーフサポートが行われる場合もあります。医療従事者や介護、福祉、葬祭業に携わる人などがグリーフケアを学び、それぞれの現場でグリーフサポートを行なうことも耳にするようになってきました。僧侶もそうかもしれません。信頼できる場であれば、こうしたグリーフサポートを活用することも、グリーフと付き合っていく良い方法のひとつです。

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