第31回|グリーフを抱えて生きる
喪失を体験せずに生きられる人はいません。極端に言えば、生まれたばかりの赤ん坊も「胎内」という安全な場所を失って世に出ます。年齢や性別、環境を問わず、生きることは喪失の連続です。
そう聞くと苦しく感じられるかもしれません。これからの人生でも喪失を繰り返すと言われ、前向きになれる人は少ないでしょう。傷つくのを恐れ、なるべく人と関わらず静かに生きたいと願う人がいるのも頷けます。
実は私も、かつて同じような思いを抱いたことがあります。寺で育った私は、出入りするご門徒の方々にかわいがられ、祖父母のように慕って育ちました。しかし大学4年生の頃、大変お世話になったご門徒さんが亡くなり、初めて僧侶として葬儀を勤める機会がありました。
ご遺族からは「あなたがいてくれてよかった」と感謝されたものの、私自身の心は辛さと悲しさでいっぱいでした。そして気がついたのです。これから僧侶として生きていくことは、幼い頃から私を愛してくれた大切な人たちを、一人ひとり看送り、別れを繰り返していくことなのだと。その先にある膨大な悲しみを想像し、僧侶として生きることがとても怖くなりました。
けれど、別れの悲しみは同時に、私たちが大切な問いに向き合うきっかけにもなります。身近な方を亡くされたことを縁として寺へ足を運び、法話に耳を傾けるようになった方々がいます。私自身もまた、喪失の辛さを通して、より深く仏教の教えにたずねていく歩みが始まりました。
日本の仏教は時に「葬式仏教」と揶揄されることもあります。しかし、葬儀という切実な別れの場こそが、人が本当の意味で生を見つめ直し、仏教の教えと出会っていく大切な機縁となってきたのだと感じています。
寺の住職としては、喪失を縁として仏教に学んでほしいと言うべきかもしれません。ですが、喪失から生まれるものは宗教に限らず、私たちの身近にたくさんあるのではないでしょうか。喪失は怖く、嫌なものです。私自身、その思いは今も変わりません。けれども、そこから新しく生まれる営みや繋がりがあることを知っているからこそ、私たちは喪失を過度に恐れる必要はないのだと考えています。
